「見ろ……敵が引きあげていくぞ……!」 誰かが叫ぶのを遠くに聞いていた。傷口から地面に吸い込まれていく液体を片手で押さえながら、コンラートは目を見ひらいて地平線を凝視していた。 敵の旗が、ゆっくりと遠のいていく。今まで何度も押し寄せてきた苦しみの波が、はるか彼方まで、とどまることなくひいていく。 これは現実なのか。砂のようにこぼれていく意識が見せる、幻ではないのか。 「勝った……」 誰かがつぶやく。もはや旗の影は砂ぼこりの彼方に完全に消えていた。 「勝ったんだ。俺たちは、人間どもに勝ったんだ!」 興奮が、錆びついた神経にひろがっていく。 勝ったのか。自分たちは、この地獄で。 「コンラート」 いつの間にかヨザックが隣に立っていた。全身泥や血でまみれた彼の目は赤い。 コンラートは息を吸い、目をきつくつむった。顔をあおむけ、まぶたをあける。視界にはいるのは青色。 勝った。 何かが体のうちをかけのぼる。剣を高くかかげ、コンラートは吼えた。 戦士たちもみな、それにつづいた。今この感情にふさわしい言葉など、魔族も人間ももたないだろう。 獣たちのかちどきは青空のもと、いつまでも尾をひいて響いた。 + 焚き火が音をたててはぜた。 火の粉が散らばる。煙に巻きあげられ、ゆらゆらと落ちてくる光の点。 両ひざに頬杖をつき、だるそうにその光景を眺めていたヨザックが、ぽつりとつぶやいた。 「ここで死んだら、悲劇の英雄よねー」 どうかな。 コンラートはこたえた。 もしかしたら声がでてなかったのかもしれない。炎に照らされて全身をオレンジ色に染めた男が、ちらりとこちらを見たのを感じた。 あたりの森はひどく静かだった。火の燃える音以外、耳に届くものは何もない。 焚き火が照らすひかりの輪のなかには、ちらほらと木に寄りかかり眠る兵の姿がある。遠くには見張りも立ち、警戒はつづけているが、今までのような緊張感に満ちた空気はない。 安らかな夜だった。 横たわる上司を見下ろしながら、ヨザックは足元にあった薪をつま先で焚き火に押しこむ。 ふいに身を乗りだすと、彼は先程よりもすこし真面目な顔をして言った。 「だが俺たちとしては、アンタには生きて戻って喜劇の英雄になってもらいたいんだがね」 喜劇の英雄ってなんなんだ。 心で浮かべた疑問が聞こえたかのように、ヨザックは笑った。 「喜劇ですよ。全身血まみれ、腹から内臓たらして凱旋パレード。純血魔族も悲鳴をあげて逃げだすぜ」 やれやれ、という手振りで首をふる部下に、コンラートは長い前髪のあいだから胡乱な目を向けた。眼の下には、くまがくっきりついている。 勝利を見届けてすぐ、コンラートは倒れた。 当然だろう、自分でも立っていられるのが不思議なぐらい、多くの傷を負っていた。特にひどいのは脇腹の傷で、絶え間なくこぼれる血に、巻きつけた布は黒く染まり、ごわごわとしていた。清潔な包帯などは、とっくの昔に尽きている。 とてもではないが動ける状態ではなかった。 生き残った部下をまとめて、先に帰還させたのは数時間前のことである。 コンラートは背をささえられて上身を起こし、彼らを見送った。 だが今は体を起こすどころか、腹に力をいれて話すこともできない。いままで無理して押さえつけてきた疲労が一気に舞いもどり、体を地に縫いついけているようだ。 「これからはルッテンベルクの獅子じゃなくって、ルッテンベルクのゾンビって呼ばれるようになりますよ。帰ってきた不死身。巷ではあんたの髪型が大流行して、茶髪のロンゲが」 「ヨザ」 腕をもちあげようとしたが、地面に落ちる。 代わりに瞳をうごかして、何か言いたそうな男の顔を見つめた。 「もういい」 「何がいいんスか」 「いいんだ」 相手は口をつぐんだ。ふたりを照らす焚き火が、ぱちりと音を立てる。 ヨザックの唇がゆがんだ。 「……やだやだ、これだから後ろ向きな男は。何悟っちゃってるんだか。もっと前向きに生きろよ」 コンラートは思わず、頬をゆるめた。そんな泣きそうな顔するなよ、ヨザ。 「まあ素敵な笑顔だこと。その調子だ、もっと笑ったらいい」 そういえば、この幼馴染の泣いているところを、今まで見た覚えがないなとコンラートは思う。 何かが終わり、はじまるとき、彼の顔に浮かんでいるのはいつだって、おのれを巧妙に隠した笑みだった。そんな気がする。 ヨザックは、炎のオレンジ色を目に反射させながらつづけた。 「楽しいこと考えろよ。たとえばいま一番欲しいもの、見たいもの、会いたい人―――そうだ、あんたにはスザナ・ジュリアがいるだろウェラー卿」 「ああ……」 瞳を夜空に向けた。 「そうだな」 あの青い色はもう一度見たいと思う。 今は、空があんなに暗いから。 「あんたはそうやって気の抜けた返事してますけどねえ、隊長。彼女を泣かせたら多方面から苦情が来るんだぜ。特にあの女王様と毒女なんぞ……」 ぶるりと身震いして、ヨザックは言葉をにごした。 「いやまあ、とにかくだ。イイ夢見ながらふんばってちょうだいよ。あ、腹に力入れたらだめよ、はみでるから」 ヨザックの指が、視界を邪魔していた前髪をどけてくれた。ついでに頬をこすられる。 今夜は上官と部下の関係よりも、幼馴染としてのそれの方が上回っているようだ。 この地に残ったわずかな仲間たちも既に眠り、いま起きているのはふたりだけ。もしそうでなかったとしても、今更とがめる者などいないだろう。 夜の優しい空気と気安い雰囲気が、コンラートを包みこんでいた。 もうすこし。 もうすこしだけ進もうか。 せめて夜が明けて日が昇り、青い空が見えるまで。 焚き火のくずれる音がした。ヨザックが手にした薪で火をつつく。それから先、彼は口をひらかなかった。 視界のなかで、雲が位置をかえていく。 空は徐々に色を深め、紫が濃紺になり、黒になった。銀の星がいっそう映える。 そのまたたく光点の合間を、大きな円が縫うようにすすむ。ゆっくりと。ゆっくりと。空をのぼり、降りていく。 月が森の影に足をつけた頃には、スクリーンは全体の明度をあげていき―――透き通った青みを帯びていた。 気づくとこめかみに、熱いものが伝い落ちていた。 「朝だぜコンラート」 ヨザックが、顔をのぞきこんでいた。彼らしくない、計算のかけらもない、くしゃりとした笑顔を浮かべている。 「生きてやがる。本当に不死身らしいな」 コンラートも、口元をほころばせた。雫が幾筋も落ちる。晴れているはずの空からも。 大切な仲間たちと勝利をあじわい、きれいな青空をふたたび目にし、長年の友の泣き顔を見ることができた。なんて自分はついているのだろうか。 指をゆっくりと持ち上げ、ヨザックの腕に触れた。その指を強く握られる。コンラートは、かさついた唇をひらいた。 「帰ろう、ヨザ……」 俺たちの国に。 ルッテンベルクの獅子が凱旋を果たしたのは、しばらくのちのことであった。 城門をくぐり、歓声でむかえられ、獅子はようやく歩みを止めた。 そして知った。彼にとってのすべてが、とっくに終わっていたのだということを。 |