閉じたまぶたの下で、目が少しだけ痛んだ。 寝台のうえで身じろぎし、体を仰向ける。まぶたをあけて天井をみた。 小さな穴のあいた、テントの低い天井だ。穴からは、太陽の白い光が一筋、こぼれている。もう幾たび迎えたかわからない、戦場の朝だ。 「隊長。入りますよ」 返事をするまえに天幕の布が揺れた。 部屋を横切る靴音がひびき、寝台に黒い影がさす。 「隊ー長」 頭にひびく陽気な声がふってきた。光の筋をさえぎって立つ男の、影のかかった顔は笑っている。 「寝坊なんて珍しいですね。朝ですよ」 目の前で揺れた、陽に透けたオレンジの髪を見るともなしに見ていたコンラートは、ようやく彼の瞳に焦点をあわせ口をひらいた。 「……おはよう」 「おはようございます。なんだ、寝ぼけてんのか?」 朝におはようと言って何が悪いんだ。 コンラートは頭の片隅で、そんなことを考えた。 「まあ、とりあえず起きてくださいよ。みんな集まって、あんたを待ってる」 男に言われるまでもなく、コンラートの頭は起きようと手足に指令をだしていた。 が、体が言うことをきかない。 眠りの海に、首から下がいまだに浸かったままだ。指を動かそうという意志のちからも、手足を通るうちに溶けて流れる。 いくらたっても起きあがろうとしない上司の姿に、男は片眉をあげた。 「起きねえの?」 そう言われても、何とも答えられない。自分に何が起こっているのか分からない。 重い水にとらわれた体は、為すすべなく天井を見つめるだけだ。寝台に縫いつけられた黒い影。動かない腕の表面に、天幕のなかに広がる不可思議な沈黙がさわる。 男の顔からはいつの間にか軽さが消えていた。何を考えているのか分からない無表情が、コンラートを見下ろしている。彼の背負う光がまぶしい。 ふと、逆光のなかで、男の唇の両端が持ちあがった。気怠げな声が聞こえてくる。 「仕方ねえなあー。グリ江ちゃんが朝のお支度手伝ってあげましょーか」 失礼します、と言って靴を脱ぎ、寝台にあがると、コンラートの体をまたいだ。懐から薄い刃を取りだす。 おい、ふざけるなばか。そう唇だけ動かして抗議するが男は無視し、コンラートの頬にひやりとした刃を当てた。思わず背けそうになる顔を、空いた手で押さえられる。 「お前」 「まずはお髭をそりましょう」 そのまま慎重に、刃をあごにかけて滑らせる。冷たい感触が這った軌跡に沿って、うすく生えた無精髭が落ちる。 コンラートは、押さえこまれた顔をしかめながら、目だけ動かして男を睨んだ。 (―――こいつ) まばゆい光のなかで、オレンジ色の髪が動く。 (調子のわるい他人の、それも上司の体で遊ぶなというんだ。何がお髭をそりましょうだ。この隊の誰が身だしなみなんて気にするんだ) 乾いた土のうえで過ごす毎日の朝に、髪をととのえ、髭を剃り、律儀に身をただしてきたのはコンラートひとりだけだった。 別に、自分が特にきれい好きだったという訳ではない。この戦場に来るまでと同じように一日をはじめる。それがこの戦に対する、コンラートのささやかな「意地」だったのだ。 が、それも数日前までの話であって、ここ2、3日は髪に手櫛を通すこともしなくなった。何だか急に、意地を張るのが億劫になったのだ。 そんなコンラートのささやかな変化に、とくに触れてくる者はいない。 いや、今目の前にいる男は暗に触れているのだろうか。こんな遠回しな方法で。 (ヨザック、もういいよ) 口を動かすのも億劫なので目で訴えてみたたが、当然伝わらない。コンラートはあきらめて、弱々しく溜息をついた。 逆光を背負い、影になった男の右手で、刃は時折ちらちら光る。するどい星のまたたきだ。 その光の明滅にいつしか意識を奪われていたコンラートの耳に、まずいなあ、と独り言のようなつぶやきが降ってきた。 「まずいなあ隊長。あんた熱あるよ」 落ちかかるまぶたを押しとどめながら、そうか、熱か、と心のなかでぼんやりと独りごちた。どうりで頬や首にふれる彼の手が冷たく感じられたわけだ。唇から漏れる息も、湿っぽく熱い。 原因が分かって気分は幾分軽くなったが、背骨が鉄のように痺れている事実は変わらない。むしろ体は重みを増した気がする。 上司に熱があると分かっても、男は作業をやめようとはしなかった。彼が懐の布で刃をふいて、ことりと脇のテーブルに置いたのは、しばし後のことである。 「きれいになりましたよ。これで少しはあんたらしくなった」 一呼吸おいて、男は言った。「さて、どうしましょうかね」 「ヨザック、いいよ」 「よかないよ」 そう言うと男は体のうえからおり、天幕の布を揺らして出て行った。急に胸のあたりがすずしくなる。 外からは人の声らしき音はするものの、何を言っているかわからない。耳も鈍くなっているのか。風がざわりと吹いているような、そんな音が天幕のまわりを取りまいている。 まぶたを閉じると、ちょうど右の目のあたりに天幕にあいた穴からさしこむ光があたるのを感じた。かつり、と小さな石が転がるような音を耳がとらえたのを最後に、コンラートの意識は暗く沈んでいった。 それからは、何人かが天幕を出入りするのを、浮き沈みする茫漠とした意識がかろうじて覚えている。 + 額に冷たさを感じた。 先ほどよりも腫れぼったいまぶたを開けると、寝台の脇の椅子に、オレンジ色の髪の男が座っていた。 コンラートの額には、彼の手のひらが乗っていた。手は時々裏返され、左右が変わったりした。なるべく冷えた面を額に触れさせようと工夫しているのだろう。 何か効果を期待してこんなことをしている風ではなく、むしろ彼自身の気休めのためにやっているようだった。 もしくは暇つぶし。 コンラートはしわがれた声をだした。 「……いまは何時だ」 「昼です」 患者が目を覚ましたことにとっくに気づいていただろう男は、素っ気なく答える。 コンラートはゆるりと首をふって、額の上から手のひらを追いはらった。手は素直に引き下がる。コンラートはいがらっぽい喉に顔をしかめながら、声を押しだした。 「今日は、朝の号令を出していない」 「うん」 「定例報告も受けてない」 「報告なんか受けなくたって、いつも通りですよ」 かすかに笑って、男は言った。「兵糧残りわずか。薬なし。包帯なし」 援軍なし。死傷者多数―――。 水も足りなかった。布を浸して病人の額に乗せる、そんな一時の慰めのために用いるような余分な蓄えはない。 陣を転々とうつす日々のなかでは、ここ数日のように、水場を思うように確保できない期間があった。やせた土地で水が得難いのは相手も同じで、時にはひとつの泉で、水を汲みにきた敵兵と衝突することもあった。 コンラートの弱い意識は、ある新しい記憶に吸いよせられた。数日前のことだ。 転がるバケツと、新兵の体。悲鳴と怒号。剣戟。赤い水―――。 コンラートは、体をさいなむ熱を逃がすように溜息をついた。 (逃げても良かったんだ。俺はそんな小さな泉を死守しろだなんて命令は、だしていなかったんだ) 「水、飲みますか」 目の前に差しだされたコップのなかで揺れる液体を、コンラートは力のない瞳で見つめた。 顔だけ起こして一口ふくみ、ふたたび寝台に頭をおろした。まぶたの下の目が痛い。 コンラートは、目をつむったまま深呼吸をすると、腹に力をこめて起きあがろうとした。男の大きな手のひらが、肩を押さえる。 「なに」 「起きる」 「起きなくていいんですって。みんなあんたがいなくても、やるべきことをやってる」 「俺もやるべきことをやる」 「あんたのやるべきことは、休むことだ」 「休む……」 震える腕に力がはいらない。 「1日ぐらいかまいやしないさ。敵さんだって毎日は戦争してられないんだ。こんなに天気のいい日には、きっと日光浴でもして疲れを洗い流してるよ。真昼から酒飲んで、あんたみたいに顔を真っ赤にさせて、ダンスしてるかも」 コンラートは寝台に背をおろした。息を大きく吸いこむ。 (ダンスか) コンラートは口の端を小さくあげて笑った。男も、つられたように笑う。 「眠れよ。……大丈夫だから」 お前のそれが一番不安なんだとコンラートは心の片隅で毒づいた。目を閉じると、毛布が肩のあたりまで掛けられる。ところで、お前にとってのやるべきことは何なんだ、ヨザック。 + 駆けている夢を見た。 息を荒くして、がむしゃらに駆けていた。 右手はいつものように剣を握っている。だが、いつもより余程無様に、まるで剣の素人のように、ただそれを振りまわしていた。 薄い刃が目の前にあらわれた。自分の体に向かってまっすぐに吸いこまれていく。その光の軌跡を視線で追う。 あっ、と声をあげたときには、腹にその刃はあてられていた。地面と平行に、何か柔らかいものでも斬るように、その刃が背中にすべっていく。熱い液体が体中に、染みのように広がっていく。 視界の隅に、光を反射して揺れる泉がうつった気がした。 + 目を覚ます。 体が熱かった。心臓が脈打ち、全身に汗をかいている。濡れた首筋に冷たい風を感じ、天井に目を向けると、小さな穴が赤い空の色に染まっていた。 視線だけで横を見る。そこには、オレンジ色の髪の男が地面に直にすわり、たてた膝に頬杖をついて何かを見つめていた。コンラートの覚醒に、気づいた様子はない。 男の視線は、テーブルのうえのコップに向けられているようだった。 テントのなかは、穴から降ってきたごく薄い赤金の光に満ちている。 コンラートは、柔らかな光に照らされたコップの水と彼の横顔を眺めながら、ふたたび寄せてはかえす浅い眠りにさらわれていった。 + 世界は赤く染まっていた。 大きな、とてつもなく大きな夕日が、ちょうど目の前に浮かんでいた。 少年の姿をしたコンラートは、赤い光を全身に浴びながらぽつねんと立っている。 後ろを振り向いた。誰もいない。 夕日にむきなおる。おーい。声をあげる。返事はない。 太陽をむかえる器のような赤い大地は、蜃気楼のようにゆらゆらと揺れていた。 おーい。おおーい。 一閃、太陽から放たれたひときわまぶしい光が、右目をつらぬいた。短い悲鳴をあげる。 光につらぬかれた右目が、めまぐるしく様々な絵をうつしだしたのだ。いままで彼が経験したすべての情景。圧倒的な光とわずかな影の連続が目の前をよぎり、ちかちかと瞳のなかで銀の星またたく。 なんて懐かしくて禍々しい万華鏡。あざやかすぎる閃光を無数に浴びた小さな体に、痛みのような何かがはしった。 『大丈夫』 誰かの声が地面の奥底からわきおこり、光の世界に響きわたった。少年自身の声に似ていた。 『大丈夫だ、勝てる。俺たちの望みのかなう日が、来る、かならず。皆で帰るんだ。みんな無事に、生きて―――』 少年は、1歩、2歩と足を踏みだし、とうとう走りだした。 何に向かってか。 世界を埋めつくそうとする巨大な夕日に。涙をこぼしそうになる目と胸の痛みに。じりじりと己を溶かし、消していく熱い光に。 + 次にまぶたをあけると、青みを帯びた暗さが視界を支配していた。 静かだった。 森のざわめきひとつない。天井にあいた穴が、ひやりとした夜の吐息を音もなく吹きこんでいた。 じっとりと汗でぬれた体を身じろぎさせ、隣を見ると、いまは暗くくすんだオレンジ色の、男の髪が見えた。男の、自分に向けられたいつになく優しい笑顔も。 コンラートが驚いたように目を見ひらくと、男はおはようございます、と笑った。 「……熱。さがったみたいですよ」 ささやかれる静かな声に、コンラートは目を伏せて、そうか、と口をひらいた。 手が差しのばされる。 「呼んでたよ」 硬い指でコンラートの汗ばんだ額に張りついた前髪をとかしながら、男は言葉をつむいだ。 「グウェンとか、ヴォルフとか。おかあさんとか」 「嘘だな」 「本当だよ」 男は、くつくつと笑いながら言う。 コンラートは憮然とした顔で目をつむった。 (おーい) 閉じたまぶたのはるか遠くから、子供の声がきこえる。 (おおーい) コンラートは、体にかけられた薄い毛布を引き寄せ、頭で寝台の感触を確かめながら言った。 「……俺は、お前たちを呼んだつもりだったよ」 だれも答えてくれなかったけどな。そんな理不尽な恨み言は、心のなかだけにしまっておく。 男はコンラートの肩にかかった毛布を直しながら、あらそうだったの、と意外そうな声を出した。 「でもさ隊長。俺たちのことは呼ぶ必要ないだろ」 目を閉じたままのコンラートの、毛布からでている右手に、男の手が重ねられた。 「俺たちはこんなにも、あんたの近くにいるんだから」 天井の小さな穴から、寝台に一筋の月の光がさしこんでいる。鼻をかすめて、涼やかな夜気が香る。静かな夜の、光の匂いだ。 コンラートは、閉じたまぶたのしたに痛みをかかえながら、それ以上声を発することはしなかった。 |