ぱたん、と扉が閉じて、ユーリはひとり部屋に取り残された。 手を休めず書類のいちまいにサインをし終え、処理済の紙の束のうえにのせる。 未処理書類の山を横目でながめ、羽ペンの尻尾を振りながら迷っていたが、結局ペンを置いた。背もたれに体重をかけて、ひと呼吸つく。 ぼんやり眺める部屋のなかは、がらんと広く、静かだった。この執務室でひとりきりになる機会は滅多にないから、余計にそう思うのかもしれない。 赤いじゅうたんの上に、四角く切りとられた光が落ちている。レースカーテンをとおした、柔らかい初夏の日ざし。 今日はいい天気のようだ。気温もあたたかいし、きっと絶好の野球日和だろう。 こんな日にひとりで執務室にいるなんて、なんだか一人だけ体育を休んで、晴れた日のグラウンドを誰もいない教室から見下ろしているような気分だ。 ユーリは小さく伸びをすると、疲れた目をしばたたかせ、天井を見上げた。執務室には似合わない、豪華なシャンデリアがきらめいている。 (おれ、頑張ってるね) 誰ともなしに語りかけた。 (我ながら、よくやってると思うよ。そうだろ? なあ、ちょっとは誉めてくれよ) いや、充分誉められているか。 役人も貴族たちも、婚約者である前王の三男も。ごくたまに、しかめ面の長男も。 先ほど席を立った王佐などはひっきりなしに、ユーリのことを「よくやっている」と誉めてくれる。喜んでくれている。それでもう、充分なはずだ。 「……」 ユーリは背もたれから体をはなし、つぎの書類を一枚とった。 机に頬杖をついて、それを読みはじめる。ペン先で、一文一文なぞるようにして、目で追っていく。 よこにあった本が丁度いい高さだったので、何気なく肘をそのうえに乗せた。紙の下まで読み終わると、ふたたび上に戻って繰りかえす。なかなかの難物。数字ばかりで読みづらい、経済関係の報告書だ。 目の端で、白いカーテンが揺れている。日にあたためられた風が、わずかにひらいた窓をとおって、四角い部屋に溶けこんでいた。 ユーリはいつの間にか、まぶたを閉じていた。頬杖をつく手のひらが、顔を深く受けとめている。 部屋のなかではカーテンが音もなく、風をはらんで大きくふくらんでいた。 なつかしい日の匂いが、鼻をかすめる。まぶたの下で、ユーリの目がうごいた。 いつの間にか、あたたかい、安らいだ空気に包まれている。 草むらで寝転んでいるときのように、頬に肩に、胸のおくまで、太陽のひかりを感じる。心地よさに、ユーリのまつげは震えた。 息を肺に含もうと薄く唇をひらくと、そのとき、何かに髪をすくわれるのを感じた。 「前髪が伸びたね、ユーリ」 心臓をつらぬく衝撃がはしった。 ユーリは頬杖を机のうえについたまま、目をみひらいて固まっていた。 口は半分ひらいたまま。胸をうつ脈がやたら速い。 視界のなかの光景は先ほどまでと何も変わらず、赤いじゅうたんの敷きつめられた広い部屋に、ユーリひとり。空気を逃がしたカーテンが、ゆっくりとしぼんでいくのが見えた。 ユーリはしばらく時を止めていたが、やがて硬い動作で視線を机におろし、ようやく何が起きたのかを飲みこんだ。どうやらうたた寝をしていて、本からずり落ちた拍子に目が覚めたらしい。 深くため息をつき、力を抜いた。思わず苦笑する。 ふと手をのばして前髪に触れた。風の気配が残っていた。 王佐が戻ってきたのはそれからすぐのことだった。時計を見ると、彼が出ていってから帰ってくるまでそんなに経っていなかった。 王佐の声を聞きながら、ユーリは頬杖をついてぼんやりとしていた。黒い瞳には、ゆるやかに揺れる白いレースカーテンが映っている。 「というわけでこの地域は―――陛下、どうなさいましたか」 「え? ああ、ごめんギュンター。つづけてくれよ」 ユーリは手のひらを顔から外し、王佐に向き直った。 過保護な青年は、心配そうに眉をひそめる。 「なにか、お悩み事でも」 「いや、べつに。―――ただ」 「ただ?」 ユーリは口をつぐんだ。 この胸にわだかまっているものは、いったい何なのだろう。 自分でも、よくわからないのだ。 「ただ、さ。……辞書からずり落ちて目ぇ覚めると、ものすごい高さから落下したような気分になるよなって」 ますます不思議そうに首をかしげる王佐に、ユーリは気まずげに笑った。 「思っただけ。―――それだけ」 |