大きなキャンバスに、刷毛で思いきり青の色をのせた。 Zの字を何個も描くように、ジグザグと塗っていく。時々絵の具のはいった大きな缶に刷毛を豪快に突っこみ、補給する。何度も塗り重ねる。 やがて浮かびあがる一面の青。 絵の具をしたたらせた刷毛を片手にもったまま、検分するようにじっと眺めた。 青のいろは、冷たげで深くて悪くない。 しばし思案していたが、ひとつうなずくと、脇に置いてあった絵の具の缶のなかから、ある色を探した。 見つけた缶を、うやうやしい手つきで持ちあげて、足元に置いた。洗った刷毛を缶のなかに入れて、中身をすくう。キャンパスの左上から、慎重に塗った。 黒い色の一文字があらわれる。 刷毛はなめらかに滑りながら、すい星のように尾をひいて、キャンバス右上に到達した。つぎは一段下を、同じように右から左に。徐々に青い色をからめながら、キャンパスに青と黒のグラデーションをつくっていく。 夜の空のような、奥行きのある色の重なりに、我ながらうっとりとする。 はっとして、細い筆をあわててとった。もう片方の手で、絵の具のチューブをさがして乱雑な箱のなかをがちゃがちゃとかきまわす。見つけた一本をパレットのうえで絞りだし、豆粒大の絵の具をのせた。 筆の先端まで神経を行き渡らせ、青と黒のキャンバスに点を落とす。夜、というキーワードから連想して、幾つもの銀の星を。 太めの筆で、白い月も描いた。 あとは何を足そう。あごの下に手をあてて考えた。 その結果、キャンバスの下のほうに、緑の大地を描いた。きっぱりとした、目に痛いほどの若草色が浮かびあがる。 何歩か離れてキャンバスを見る。いい。中々だ。 しかしあと何か一味いれたい気がして、パレットをもったまま目を閉じて考えこんだ。前髪の一箇所が何故か固く張りついている。気づかぬうちに絵の具が飛んだのかもしれない。 まぶたをあけ、足元に転がっていた箱のなかに手を差しいれた。ねじれたチューブの数々。とりだして、ラベルを見てはまた放る。赤―――というよりはオレンジ。いや茶に近い色がいい。 という訳で、茶を地平線上にすっと一筋いれた。 パレットのうえで色をこちゃこちゃとつくる主義ではない。チューブや缶のなかの絵の具をできれば直接、がつりとキャンバスのうえにのせたい人間だ(妥協して刷毛や筆をつかっているのだ)。 そんな描き方を見て、「すげ、芸術は爆発だな」と評した奴がいる。その通り、芸術は爆発なのだ。 完成。 「なんだあ、これ」 肩のうしろから顔をだした少年が言った。たちのぼる絵の具の匂いに顔をしかめている。 画家の格好をし、鼻のあたまに絵の具をつけたヴォルフラムは振りかえらずに言った。 「どうだ。久々の僕の大作だ」 「なんか、幼稚園児の描いた星空みたいな……」 「おい、絵を指で突つくな! ヨウ―――なんだって?」 いやいや、とユーリは慌てて手をふった。 「実に素晴らしい抽象画デスナ」 ヴォルフラムはうむ、とこぶしで鼻の頭をふくと、満足げに言った。 「心のままに、うつくしいものを描いてみた」 「うつくしいもの? これが?」 「なんだ。なにか異論があるのかっ」 胸倉をつかまれたユーリはタンマタンマなどと意味不明な単語を口走りつつ、先ほどの暴言を棒読み台詞で撤回した。 「う、うつくしいです。もう、うつくしすぎて目がつぶれそうでーす」 つかんでいた服をぱっと離した。 「お前には二度と芸術を語るまい」 「いやー……」 服を撫でながら、ユーリは苦笑している。腕組みをしてそっぽを向いたヴォルフラムにため息をつくと、絵に向き直った。そして、 「あっ」 何を思いついたのか、突然変な声をあげた。 ふりかえると、ユーリはなぜか笑顔でこちらを見つめている。 「なんだ、急に変な声だして」 「いや。うつくしいかどうか別として―――よく見るとこの絵、いいよな、と思ってさ」 ヴォルフラムはユーリの顔をのぞきこんだ。お世辞か? 「お世辞じゃないって。いいよこの絵ほんと。俺好きだな。この辺とか」 青い色を指さす。 「この辺とか」 銀の星をいだく茶色の地平線と、緑の草むら。 ヴォルフラムは訝しげに目を細めていたが、ユーリのにこにことした笑顔を見つめているうちに、満更でもない気持ちになった。 ごほんと咳ばらいをする。 「ふん。お前もようやく芸術がわかるようになったか」 「わかるわかる。芸術は爆発だな」 「ああ、爆発だ」 ユーリがしみじみとした声をだした。 「かわいいよなあ、ヴォルフは」 「なんだと?」 振り向くとユーリが妙に生あたたかい視線でこちらを見つめている。 「ほんと、かわいーね。もっと素直になれればいいのにな?」 「どういう意味だっ」 「さーね」 むかっとしたので、筆に黒い色をつけて、鼻の頭に押しつけてやる。 一瞬びっくりして目をつむったユーリは、きょとんとして鼻に手をやると、吹きだした。 「こういう、意味ですよっと」 笑顔のまま筆を奪い、ヴォルフラムの頬に何か文字をかく。 「できた」 「こら、なんてことをするっ。なんて書いたんだ、ユーリ!」 こぶしを振りあげる。その一発をひらりと交わすと、ヴォルフラムの絵を背にして、ユーリは爆笑した。 「ひみつ。知りたかったら、おにーちゃんたちに聞いてみな」 |