雨上がりの空は、青い色で滲んでいた。
 アスファルトのあちこちにできた水たまりに、まばゆい日差しと、春のやわらかい色彩が浮かんでいる。
 その水たまりが、ばしゃりと波紋をひろげた。揺れる表面は、上を飛びこしていく黒髪の少年をおぼろげに映した。
 
 軽やかに。
 円は一定の軌跡をえがき、つぎつぎと重なっていく。

 ユーリは走っていた。
 ゆるやかな風を追いこし、飛び跳ねながら。舞いおりる花びらを、肩に髪に乗せて。

 
 ―――予感があった。
 胸にともり、心を高鳴らせる予感が。
 
 感じたのは、数時間前のことだ。
 ユーリは退屈な授業を右耳で聞きながら、頬杖をついて窓を眺めていた。
 外では、けぶるような雨が降っていた。
 地面をたたく音も小さく、無きに等しい。あくまでもやさしく静かに、景色を白く覆っている。グラウンドを囲む緑や、そのむこうのピンクの色彩も今は雨に隠されて淡い。
 その雨がふいに、去った。
 レースカーテンがひらいたように、辺りの景色が鮮明になる。
 湿ったグラウンドに、雲からこぼれた太陽の光がさあっとさしこんだ。塗れた地面のあちこちに、光がともる。

 その時だった。なにか声のような気配が、耳元を通りすぎたのは。

『……』

 ユーリは手のひらから、わずかに顔を浮かせた。ガラスに映る自分が、目を大きく見ひらいている。

『……いで。ユーリ』

 心のどこかがぼうっと熱くなった。まるで良い便りをもらった時のように、頬が赤く染まった。
 教室のなかは、相変わらず抑揚のない教師の声だけがひびいている。
 たぶん、他の人には分からなかったのだろう。耳元で、自分だけにささやかれた呼び声だ。

 授業が終わり、ホームルームが終わるや否や、ユーリは居ても立ってもいられなくなり、教室を飛びだした。




 ユーリはカバンをわきに抱えながら、息を弾ませ、並木道を駆けていた。
 スニーカーが水たまりをはねる。 
 飛び散った水玉たちが、空中に一瞬とどまり、表面に薄紅色をうつす。
 雫が地面にぱらぱらと落ちたときには、もう、ユーリの姿は消えていた。
 
 



 目をひらくと、石でつくられた壁が見えた。その上を、ごぼ、と自分の口からでた泡が横切っていく。
 手で水をかいて体を回転させながら、水面をさがした。意外と浅いのか、すぐにつま先が底につく。
 水底を踏んだ足にちからをこめ、背筋をのばしていくと、ガラスのように透きとおった水は、段々と明るさを増していった。
「めずらしー!」
 ぷはっと息を吐いて水面に顔をだし、最初に叫んだ言葉はそれだった。
 腕で顔をぬぐう。水をこぎながら、数歩の距離をあるく。空気にさらされた視界のなかで、見慣れた顔が笑って自分を待っていた。
 石づくりの縁からさしのべられた手をとりながら、ユーリは口をひらいた。
「もしかしてまともな場所に出たんじゃね? すぐ目の前にコンラッドがいるってことはさあ。誤差とか間違いとかどっきりアクシデントなしで呼ばれたの、俺はじめてかも」
 儀式の場のような泉から引き上げられる。水をしたたらせながら、はしゃぐように夢中で喋るユーリに、指がのびてきた。制服と首の付け根に差しいれられる。びっくりして、思わず体を固まらせた。
「運んできましたね、陛下」
 ユーリは強張りをとくと、きょとんとして、目の前にさしだされたものを見つめた。
 薄紅色の花びら。
 ユーリはその正体を知り、破顔した。とおく背後で、誰かが叫ぶ声がする。どうやらギュンギュンはプールの反対側で待機していたらしい。
「ヘーかって呼ぶな、名付け親」
 つまんでいた花びらを目の前からおろすと、名付け親は、いつもの柔らかい笑みを浮かべて、言った。
 
「―――おかえり。ユーリ」



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2005.03.20