昔から何も言わない男だった。 何も言わずに、剣の切っ先で結果だけ示した。すべてはこれを見て判断してくれ、ということなのだろう。 話す必要がある時には事情を話す。しかしそれも「相手に説明する」という目的のために加工されているので、それが真実であるか否か、つまり本当に彼の行動の起源であるかは分からないのだ。 そんな男の在り様に慣れてしまったこちらは、いつからか彼に事情を何も聞かなくなった。 アルノルド出征のときだってそうだ。王城の大広間で彼が「名誉である」と答えたことについて、自分は愚痴を漏らしたが、それでも結局「ついていくさ」と言った。彼の長い前髪の向こうに隠された、大事な部分は尋ねなかった。 きっと訊いても本当の答えは返ってこなかっただろうし、そして何より、「そうか」と微笑む彼の顔を見て、なんとなく、まあ良いかという気分になったからだ。 ライオンのくわえてくる「結果」に、俺たち獣は絶対的な信頼を寄せていた。 だからこそ、お前がどうやってその「結果」を見つけてきたか、そいつに爪をかける時どんな気持ちだったか、そんなことは一度だって聞かなかったんだ。 だがもはや、聞かずにはおれない。いま血まみれのお前の口がくわえている、それは何かということを。 お前の首につけられているその輪は。鎖を持っているそいつは誰だ。どうしてお前は。 + 気配をけして壁の一部のようであった人影が、ゆっくりと目をあけた。 その目に映るのは闇。波を溶かしこむ夜の色。 船のなかにわだかまる闇というのは水分をふくんでいて、もったりと重い。ランプの光も届かないこの部屋のまえは絶望的に暗く、そして静かだった。 影は壁に頭を預けたまま、わずかに後ろへ視線をやった。壁一枚へだてた空間から、安らかな息をたてる子供の気配を感じる。 口元が一瞬だけ安堵にゆるみ、すぐに引き締まった。 影は目を左右上下にすばやく動かして気配をさぐり、床下にも天井にも起きて動く者がいないことを確認すると、弾みをつけて壁から背を離した。その途端、今まで影だったものは、色彩がついたように存在感を帯びる。 髪にオレンジ、肌に肌色。 そして瞳には青。 人影は体を折り、姿勢を低くした。 (ちょっとヤボ用をすませてきまーす。すぐ戻ってきますから、坊ちゃん、いい子で待っててねん) 青の目に鋭い光をのせて、ヨザックは、音をたてずその場を離れた。 + 船の内部から甲板へとでる扉は、ノブをまわして押すと、キィ、と軽く音をたてた。吹きつける潮風に、前髪をなぶられる。 波を浴びて濡れた甲板は、天をそのまま映していた。銀の星が空と足元に境目なく広がるなか、ヨザックは足をふみだす。 歩みにあわせて揺れる視界のなかで、コンラート、その男が振り向いた。白と黄の制服を潮風にはためかせながら、無表情で立っている。 「今晩は。こんな夜に、何か見えますかね」 ヨザックは両手を広げ、おどけた調子で挨拶した。 「……」 ヨザックのつま先から顔まで眺めやると、男は海に向き直った。ヨザックはその隣に立つ。 闇のむこうに、躍動をはらんだ光景だった。 眼前にひろがる静止画のような星空。それがふいに波うち、腹に響く音とともに風がふく。眼下では海面がざわめきながらゆっくりと上下し、水平の彼方から黒い水をとどまることなく運んでいた。 ヨザックはオレンジの髪を抑えながら、口元に穏やかな笑みをたたえたまま呟いた。 「風が強くなってきていますね。波を混ぜっかえすような風だ」 視界の端で、白い波が飛沫をたてて甲板に乗りあげ、泡だちながら引いていく。 「今夜は荒れるでしょう。―――いい感じに、雰囲気でてると思いませんか」 いい旅日和だ。ヨザックは目を細めて、そう笑った。 「……護衛の役目はどうした」 男はしばらく口を閉ざしていたが、言った。 「ご心配どうも。しかし、それはこっちのセリフですよ、大シマロンの使者殿。サラレギー陛下のお側にいなくてよろしいので?」 王の名前に、コンラートは微妙な表情の変化をみせた。 サラレギー。小シマロンの王。原色の感情の塊を、薄いヴェールで隠したような少年、ヨザックにはそんな印象があった。 「誰か不届きな輩が、寝室に忍びこんで寝首をかかないとも限らない」 含みたっぷりの言葉を、柔らかい声音で言う。 「理由がないな」 コンラートは制服の襟をさすりながら、目を伏せた。 「船上にいる者は既に把握している。そのなかで何者が、今この時機この船上で、そのようなことをするのか。理由が思いあたらない」 そう言って、ヨザックを見た。 ヨザックの冷えた笑みの裏側で、ちり、と何かが焦げる音がする。 「うちの陛下が海に突き落とされた理由も、いっこうに思いあたらないんですがね、ウェラー卿」 相手は動かない。波が船体を洗う音だけが響いていた。 「だんまりか」 顔の筋肉が解け、笑みが痛みの表情へと変わった。 ぎり、と奥歯をかむ。 「芯まで新しい国の人形になったのかい。古い王は要らなくなったから、捨てたのかね。俺には分からんよ、あんなに大事そうに、宝物でも見るような目をして坊ちゃんを眺めていたくせに」 黒髪の少年と、少年を見つめる彼の姿を思いだす。それは彼の歴史をしるヨザックの胸を熱くする光景だった。 相手の沈黙に焦れて、ヨザックはつま先を踏みだした。濡れた甲板に薄く波紋がひろがる。 「なあ、隊長」 いままでずっと胸に押しこめていた疑問が這いあがってくる。 「あんたどうして……」 「らしくないな」 ヨザックの体が止まった。 「俺の知ってる、グリエ・ヨザックらしくない」 ヨザックは、今日初めてこの男の顔を正面からまともに見た気がした。涼しげで、相変わらず憎たらしい顔をしていた。 「すいませんでしたねえ。だけどそれもこっちのセリフなんだよっ」 気づけば拳を相手の胸に叩きつけていた。 胸倉をつかんで引き寄せる。鼻がつきそうなほどに近づいた男の顔に、低く抑えた声を流しこむ。 「俺は……俺はいま目の前にいる男を知らねえよ。こんな服を着て平然としているウェラー卿コンラートを、俺は知らない。 眞魔国を出て行ったことはいいさ。こちとらどっかの坊ちゃんとは違って優しくも繊細でもないんでね、アンタが出奔しようが行方不明になろうが何も感じないんだ。ああそうですか、いなくなったんだ、ぐらいなもんでな。俺の人生にはまるで関係ないことだから」 ヨザックは嘘をついた。服を握る拳に力をこめる。コンラートが一瞬、顔をしかめた。 「アンタがどこの国についたって、どこの服を着ていたって、俺は何も言わない―――本来なら。だけどな」 息を大きく吸った。喉にひっかかったような音がした。 「シマロン! よりにもよって、『あの』シマロンだぞ。 なあ、ウェラー卿。アンタの着てるその服が示す国が、俺たちにとってどんな意味があるのか、忘れたのかよ。あの土地が俺たちにとってどんな土地か、お前、本当に忘れちまったのか」 半ば怒鳴るように、最後は唸るように、ヨザックは吐き捨てた。いつになく頭が熱い。怒りでどうにかなりそうだった。 そしてすぐ後に、冷たい自己嫌悪の情が沸いてきて体のうちを冷やした。これでは何をしにこの男に会いに来たのか分からない。 (らしくないな、確かに) ヨザックはうつむき、自嘲の暗い笑みを浮かべた。コンラートは、黙ってヨザックのなすがままになっている。 ヨザックは手の力をゆるめた。 「失礼しました。大シマロンの使者殿」 そう言って顔をあげ、ヨザックは首をかしげて、懐こい笑みを男に向けてみせた。男は何か物言いたげな顔をしている。 ヨザックは笑顔のまま男の服を整え、指をはなした。 そのとき、ヨザックの手をとどめる強い力があった。 よく知った硬い指が、宙に浮いた手をきつく握っている。ヨザックは顔を向けた。 コンラートが、じっとヨザックの目を見つめていた。 銀の星が、茶色の瞳に強く輝いている。 ヨザックはその目に引きこまれるように、視線をあわせた。 さざなみの音とともに、ゆらり、ゆらりと足の裏から波の揺れが伝わってくる。 そして触れた手からも、何かが。 頭に浮かんで揺れるのは記憶。どこまでも赤い、大地と空の記憶だ。 あの場所では風も水も、雲までもが赤くて―――ヨザックはそんな禍々しい景色のなかで吼える、一匹の獣だった。 コンラッド、お前も―――お前は群れのなかで最も強く美しい獣だった。 俺たちは血に染まる草原を駆けた。炎のなか爪をふるった。 誰ひとり口をひらかず、落ちていく夕陽を眺めた。 訳もなく泣いた。 仲間の亡骸を抱いて、それでも俺たちは進んだ。風のなかで髪なびかせるお前が、剣の切っ先を向ける方角へ。まっすぐ。 ヨザックは気づくと元の船上で、茶色の真円の瞳を見つめていた。 雲を透かして落ちる月の弱い光が、細かな睫毛に落ちている。強く結ばれたふたりの手にも。 (ああ……) 視線をずらし、ヨザックは全てが抜け落ちた表情で夜空を見つめた。あごを上げ、喉を月の光にさらす。 黒い雲の合間では、数えきれない銀の光点が震えるようにまたたいていた。ヨザックは、そっとまぶたを閉じる。 (忘れてはいない。俺も―――こいつも) 手を握りしめていた指の力が弱まり、体温が離れた。 ヨザックは放された手をおろした。コンラートは無言でヨザックに背を向け、海へと向きなおる。 ふたりはしばし静寂の時をすごした。 いつの間にか風はやみ、ほんの一時の凪をむかえていた。 「結局、お前は何も言わないんだな」 ヨザックが口をひらいた。 コンラートは黙って、黒い海を見つめている。 ヨザックは言った。 「お前がそちら側にいる限り、俺はお前の喉元にナイフを突きつけるよ」 「ああ」 背中から声がする。 「それでいいよ」 ヨザックは顔を向けて、その後ろ姿を見つめた。そして男に背を向け、星空の甲板に波紋をひろげながら扉へと歩いた。 扉が閉まる音が甲板にひびき、ふたたび風は黒い空から吹きはじめた。止まっていた時が、本来の流れを取りもどしたかのように。 + 影がはしる。 さざなみよりも静かに。 影は体を低め、オレンジ色のランプのなか、ゆれる床板の動きにしたがって砂のように流れた。行き着く先は眠る王のもとだ。 ―――用は終わった。 あの男は何も変わっていない。それを確認した。 彼は何も話さないだろう。問いただしても探っても無駄だ。自分たちはきっとこれからも、あの男の事情を何ひとつ分からないままだ。 だが、もはや何も聞くまい。何も聞かず、あのライオンのくわえてくる「結果」に反応して踊ってやろう。一匹の獣として。 そして彼の剣の切っ先が最後に何を示すのか、楽しみに待とうじゃないか。 |