青年がタクシーを降りた先は公園だった。
 ドアが閉まり、車が走り去る音を背中で聞くと、青年は細長いケースを肩にかかえ目をほそめた。強い日差しが、彼の薄茶の瞳を射る。

 夏の青空が、木々の緑のうえにひろがっていた。
 公園の石畳、噴水、緑の向こうに並ぶビル。すべてが光をあびて、目に痛いほど輝いている。

(美しい日だ)

 空とおなじ色の石を胸にかけた青年の口元には、しらず笑みが浮かんでいた。彼の視線のさきには、とりわけ光をあつめる白い建物がある。
(こんなにも美しい日に、あの人はやってくるのか)

 青年は心でつぶやくと、そっと胸の石に触れた。



 今日は「あるもの」が、青年のまえに姿をあらわす日だった。
 青年は今日という日を、どれだけ待ったことか。気が遠くなるほどの時間だった。
 長い長い「待ち」の時―――その最後の数時間をすごす場所として、青年はこの緑の公園をえらんだ。

 それにしても、と青年は思う。
(本当に、本当に長かったよ)



 「待つ」という言葉に連想して思いだす、ひとつの記憶が青年にはあった。

 それは遠い昔のこと。まだ青年がちいさな少年の姿をしていたときのことだ。
 やっぱり暑い夏のある日、彼の母が腹痛をうったえ運ばれたのだ。一年かけて腹の大きくなった母だった。
 少年だった彼は手術室のまえで、椅子にも座らず、壁に寄りかかって宙をにらみながら、母の腹から「何か」がやってくるのを待っていた。
 息をひそめて。

 つぎに母に面会したとき、その「何か」は母のとなりに寝かされていた。
 丸くてやわらかそうな生き物だった。
 少年が触れると、その生き物は小さな手で、彼の手を握りかえしてきた。5本の指には、それぞれに小さな爪があった。
 少年の胸は熱くなった。
 なんて小さく、たよりなく、健気な存在だろうか。
 彼は自分の指を必死に握る手の力を感じながら、この手を決して離すものかと思った。この手がいずれ自分の手をふりはらう時がくるなんて、思いもしなかったのだ。



 鳩がいっせいに飛びたった。
 空へと吸いこまれていく羽ばたきの音を聞きながら、青年は、ぼうっと公園の噴水をながめて時がくるのを待っていた。

 暑い。
 太陽の視線から逃れるべく木陰のベンチにすわったものの、あたためられた空気は隙あらば青年に忍びより、裾や襟もとから入りこんでくる。
 もっとも、青年にとってはそれほど不快なことではない。
 より過酷な状況を、いくつもくぐりぬけてきたのだから。
 ただ、このように暑く穏やかな日に、何もせず、ひたすら何かを待っていたという記憶はないが……。

 高い笑い声をあげながら、子供らが石畳のうえを駆けていく。丸いボールを蹴って、遊んでいるようだった。
「あっ」
 ぽん、と跳ねながら、青年の足下にボールが転がってくる。
 ボールは彼のつま先に触れてとまった。駆けていた子供らが立ちどまり、青年のほうを不安そうに見つめている。
 青年は笑みをうかべると、それを拾い、子供らに投げかえした。
 笑顔で礼をいう少年の手のなかにおさまったその球体を見つめながら、青年のなかではふたたび、過去の情景が音もなく波紋をひろげた。



「また見てるの。よく飽きないねー」

 手におさまる小瓶を、目の高さに持ちあげて眺めていた青年に、男の声がかけられた。同時に湯気たつコーヒーがふたつ、コトンとテーブルに置かれる。
「ありがとう」
 青年は礼を言いながらもコーヒーに視線はむけない。
「さめちゃうよ」
「ああ」
 生返事をかえすと、男は大して気にした風でもなく肩をすくめ、テレビをつけた。手のなかのリモコンを操作すると、何度見させられたか分からないアニメの映像がうつる。
 男は色とりどりの像を眼鏡に反射させながら、食い入るようにテレビ画面を見つめはじめた。

 無為の時間が、狭い部屋にゆっくりと流れる。

 青年は無言で、掲げたビンを眺めつづけていた。
 ビンの中には、ぼうっと輝く球体が浮いている。
 その球体は細長いガラスの器のなかで宙にとどまり、しかしよく見るとゆっくりと動いていた。
 はなつ光はおぼろげで、ひどく頼りなく、そして健気にみえる。

「でもまあ、気持ちは分かるけどねー」
 前触れなく、男がつぶやいた。
 一瞬誰に話しかけているのか分からなかったが、自分に対しての言葉だとようやく気づいた青年は、ビンをおろして振りかえった。男は相変わらずテレビ画面を見つめ、リモコン片手にソファに座っている。
「こんな風に長い間、肌身はなさず一緒にいたら、愛着感じちゃうよねえ。なんていうか、親鳥が卵をあたためてるみたいな感じ?」
 男はボサボサの頭をかしげ、へらりと笑う。目はやっぱり画面から離さない。
「……」
 青年は無言で視線をうつした。男があたためるべき卵をおさめた小瓶の方は、テレビのうえに並ぶアニメキャラのプラモデルのなかに、さりげなく混じって立っている。
「そちらの卵は寒々しい思いをしてると思うけどな……色々な意味で」
「お別れするとき、泣いちゃうかもねー」
 男は青年の言葉を無視し、瞳だけこちらに向けて歌うように言った。
「誰が泣くって?」
「君が」
「まさか」
「泣くよー」
 不毛なやりとりに、青年がため息をついて口をつぐむと、男は何故か嬉しそうに満面の笑みをうかべた。
 青年は身体をずらして男を視界からはずすと、ふたたび手の中のビンを高くかかげた。光に透かす。
 視界いっぱいに広がるかがやきの中で、球体が白く浮かんでいた。



 空の球体がかがやきをます。

 時が経ち、太陽は中天に足をかけようとしていた。空いっぱい、地上いっぱいに燦々と光を降りまいている。
 白い石畳はじりじりと焼かれ、そのうえに青年の黒い影が落ちていた。
 青年はベンチに背をあずけ、太陽をながめていた。にぎやかに遊んでいた子供らはすでに去り、耳にはけたたましい虫の鳴き声と、しぶきをあげる噴水の音しか聞こえない。

 暑かった。

(まだかな)

 待てば待つほど、暑くなる。

(きっともうすぐだ)

 こめかみから、汗が流れた。あごにつたい、首におちる。空にさらされた青年の喉ぼとけが、ゆっくりと動いた。

 心地よかった。

 こんな風に汗をながして待っている時間が。


 ―――かつて、汗も流さず涙も伝わない時期があった。
 呼吸も血潮も、生きているのかさえも不確かな自分。
 事実、おのれは死んだのだと信じていた。今この場にあるのはただの抜け殻で、なかみはすっかり失われたのだと。
 一度だけ、それを人に語ったことがある。隣に座っていたオレンジの髪の友人は、何も答えなかった。そのかわり彼は無言で、抜け殻の青年の身体をつよくつよく抱きしめた。


(あいつ、どうしてるのかな)
 散々心配をかけたような気もするが、その友人には結局、礼ひとつ言っていない。
 まあきっと、彼は「かまいやしないさ」と陽気に笑うのだろうが。

 青年は口元に笑みをうかべ、目を閉じた。

 ゆっくりと流れる時間のなかで、ぽつりぽつりと過去が戻ってくる。
 長い人生のあいだで与えられた体温、言葉。苦しみと悲しみ、そのなかに光る想いの数々が、雨のように降りそそいでくる。
 いっときは青年の世界から完全に失われていたはずのそれらが、空から次々舞いもどり、乾いた大地を潤していく。
 雨降らせたのは、あのビンのなかにあった球体だ。
 自分にすがるように動き、そして時には笑いかけるように煌めいた円。自分の手が守らなければ失われただろう卵。今はこの手からはなれ、空にのぼって輝こうとしているそれ。

(おいで)

 タクシーに相乗りした女性の、大きく膨らんだお腹を思い浮かべながら、青年は語りかける。

(おいで。そしてもっと、光の雨を降らせてくれ)
 俺は、こんなにも待ちのぞんでいる。

 どんな姿をしていてもかまわない。どんな声をしていても。
 髪と瞳の色も声も、魂の履歴も、もはやどんなものであっても構わない。自分は理性ではなく心でもって、それらすべてを愛することができるだろう。

 失われていたものを世界に降らせた、かがやく何か。
 その存在を構成するすべてを、自分は愛する。



 時が流れた。
 太陽が青空のまうえへとのぼりつめ、より一層、かがやきが冴えわたる。

 青年は、ふいに、まぶたをひらいた。
 ベンチから立ちあがり、光をあびて白くかがやく建物を真っ直ぐにみつめる。

 彼はひとつの確信を胸に、言った。


「おかえり。太陽」


 そして―――ようこそ、世界へ。

 7月の青空ひろがる日に、「その人」は来た。



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2005.11.13