小さな策を成功させ、敵を追いかえすたびに歓喜の声をあげていたのは、最初の幾日かだけだった。
 残りの日々は、かさついた唇を動かすのもいとうように黙々と、剣と足を引きずって陣にもどった。
 生きのびた。
 そんな感慨が浮かんだとしても、疲れきった鈍い頭のなかでは泡のようにすぐ消える。
 何も考えない。明日から再開される戦いにそなえて、仲間たちと剣を抱いて泥のように眠るだけ。
 
 ―――こんな毎日がいつ終わるのか。

 問う者はひとりもいなかったし、答えられる者もいなかっただろう。
 勿論、コンラートも知らなかった。


「隊長。一杯いかがですか」
 腕組みをして、空を見ていた。森のうえにのぞく空は、一面白い雲に覆われている。
 後ろから声をかけられ、振りむいたコンラートは、胸の前に突き出されたものを咄嗟に受けとった。手をひろげてみれば茶色い小瓶。
 視線をあげると、そこにはオレンジ色の髪の部下がいつもの笑みを浮かべて立っていた。
「ささ。毒とか下剤じゃありませんから」
 訝しく思いながら、コルク栓を抜いて瓶をのぞきこむと、ほのかに酒のにおいが漂う。
「グリエ」
 たしなめるように睨むと、彼は悪びた風もなく歯をのぞかせた。
「わかってますって。酒は消毒に使うんだから無駄づかいするなっていいたいんでしょう」
 たくましい肩をすくめてみせる部下に、コンラートはため息をついた。
 彼の肩越しでは、夜が明けてすぐの薄い光のなか、兵たちが動きまわっている。うつむき加減の者がおおく、軽やかな足取りとは言いがたい。
「分かっているなら」
「傷口の消毒も大事ですがね、隊長。気分をだすのはもっと重要ですよ」
「気分?」
「人をぶった切る気分ですよ。最後に勝ち負けを決めるのはテンションの高さだってよく言うでしょうよ」
「初めて聞く格言だな」
「そっスか? まあ、細かいことは気にしないってことで」
「……」
 コンラートは、手のなかの小瓶に目を落とした。
 人を切る気分か。
「別に酒の力を借りなくとも、戦がはじまればそういう気分になる……自然にな」
 瓶を指でもてあそびながら、ぽつりとつぶやいた。
 茶色のガラス越しに揺れる液体を見つめていると、どこからか、馴染みすぎた戦の光景が目に耳によみがえってくる。

 みずからの咆哮。
 牙の代わりにふるう剣。血だまりを蹴り、飛沫を跳ねあげながら駆ける足。
 馬になど乗っていられない。自らの体ごとぶつかっていかなければ嘘だ。
 力の限り進もう。もっと早く強く。どうして自分は四本足で走ることができないのか?
 いつも不思議になる。

 知らないうちに、口元に笑みを浮かべていた。ヨザックは目を細める。
「―――怖。でもまあ、そういうことなら」
 伸びてきた手をひょいとかわして、コンラートは瓶をあごの前に持ちあげた。
「折角だから一口もらおう」
「結局飲むのかよ。どーぞどーぞ」
 口をつけると、ぬるい液体が喉を通っていった。やみくもにきつい酒は、しかし脳まで達したかはわからない。
 酒をかえすと、ヨザックは瓶の口をぬぐいもせずに自らも一口ふくんだ。

 息をつくと、何となしにふたりとも空を見上げる。雲は相変わらず天を覆い尽くし、動く気配がない。
「今日は……青空が見えそうにないな」
 ぽつりとつぶやくと、急に淋しさが胸に迫った。わずかに眉をしかめる。
 隣の男は気づかぬ風で、目のうえに庇のように手をかかげ、呑気な声をだした。
「ほんと、いい戦日和ですねぇ」
「そう思うのはおまえだけだよ」
「そっスか?」
 ふりむいて笑う。
 この男はいつでも明るい。モノクロームに沈みそうな仲間たちのなかで、彼のオレンジ色はくすむことなく際立っている。
 そう告げると彼は、そりゃあアタシはむさくるしい男たちのなかの紅一点だものとおどけてみせた。
「相変わらずだな。だが―――ありがとう。正直、助かってる」
 めずらしく素直に誉め言葉が口をつく。
 しかし何故か、ヨザックはふいに真剣な表情になり顔をのぞきこんできた。
 大丈夫か、お前。言外にそう問われているように思えた。
「……どういたしまして。あんたもたまには笑えよ、隊長。そんな疲れた顔してねえで」
 ようやく、自分はこの幼馴染に心配されているのだということに気づいた。



 たしかに、コンラートは疲れていた。
 どんなに強い獅子も走りつづけることはできない。戦場では相変わらず腹の底から雄たけびをあげ、爪と牙をふるっていたが、体と心の奥には重い澱がたまってしびれていた。
 それでも、何とか地を蹴ることができたのは、同じように傷つきながらも走っている仲間たちが側にいたから。そしてここでくじければ終わりだという意識があったからだった。
 何が終わるのか。どう終わるのか。
 跳ねる汗と血のしずくのなかでは、具体的なことは思い浮かべることができない。
 ただ脳裏に浮かぶのは、青い瞳がゆっくりと閉じられる場面。柔らかいまぶたの下に、空色の円が永遠に隠されてしまうイメージだ。
 なんという不吉さだろうか。コンラートは、想像するたびに胸に吹きつける冷たい風を振り払うために、いつまでも足を止めず走りつづけた。


 後退、と相手の指揮官が声を張りあげるのが聞こえた。
 幾体もの死体をのこし、潮のように敵が退いていく。遠くに見える旗違いの陣に吸い寄せられ、波はとどまる。とりあえずの小休止だろう。
 歓声もあげず膝をつく仲間たちのなかで、コンラートは、天を仰いだ。
(ジュリア)
 俺は、今日も生きのびることができたようだ。



 目が冴えている。
 寝静まる森のなかで、コンラートは剣を抱いて座り、空をみあげていた。
 闇色をうつす瞳には、銀の星が散っている。

(明日は晴れるな)

 腕の痛みから気をそらし、ぼうっと考えるのはそんなこと。

(ジュリア……俺はあの青を見ることができれば耐えられる。君の瞳の色が空にひろがる、それだけで)

 鮮やかな、あの色を待ちのぞみながら夜をこえ、青空のもとで走りつづけて昼をこえ。
 獅子の時はまわる。
 走りはじめたきっかけは仲間のためだ。だが、走りつづけることができたのは、あの盲目の女性のおかげだと信じている。
 自分は今ここにいる仲間たちと同じように、あの空を通じて、彼女ともつながっているのだ。そう思った。


 ……あとから考えれば、その時すでに、彼女は死んでいたのだろう。
 祖国にいる母も兄弟も友人も、彼女の婚約者であった男も、悲報を受けて嘆きをささげていたはずだ。
 剣にもたれて空を眺めるコンラートだけが、何も知らなかった。



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